夏の終わりの写真館

八月の終わり、蝉の声が次第に小さくなり始めた頃、田村翔太は久しぶりに故郷の商店街を歩いていた。東京で働き始めて十年、この小さな町に帰ってきたのは父の法事以来だった。昔賑やかだった商店街は、今ではシャッターを下ろした店が目立つ。その中で、一軒だけ変わらずに営業している店があった。「花岡写真館」と書かれた古い看板が、夕日に照らされて懐かしく光っていた。

翔太は足を止めた。子供の頃、七五三や入学式の写真をここで撮ってもらった記憶が蘇る。店の前に立つと、ガラス越しに見える店内は、まるで時が止まったかのようだった。古い木製のカウンター、壁に掛けられた昔の写真、そして奥に見える撮影用のライト。すべてが記憶の中のままだった。

「いらっしゃいませ」

扉を開けると、白髪の男性が奥から現れた。花岡さんだった。翔太が子供の頃と変わらず、優しそうな笑顔を浮かべている。ただ、背中が少し丸くなり、手に持つステッキが年月の経過を物語っていた。

「翔太くんじゃないか。随分大きくなって」花岡さんは翔太を見つめて微笑んだ。「お父さんの件は残念だったね。でも、こうして元気そうな顔を見せてくれて嬉しいよ」

翔太は頭を下げた。「ご無沙汰しています。変わらずお元気そうで何よりです」

「まあ、そう言ってもらえるのは嬉しいけど、さすがに体はあちこち痛むよ」花岡さんは苦笑いを浮かべた。「それより、久しぶりに帰ってきたんだね。お盆休みかい?」

「はい。実家の片付けもあって」翔太は答えた。「でも、商店街もだいぶ変わりましたね」

花岡さんの表情が少し曇った。「そうだね。時代の流れには逆らえないよ。デジタルカメラが普及してから、写真を現像する人も随分減った。スマートフォンで撮って、そのまま見る時代だからね」

翔太は店内を見回した。壁には、この町の古い写真がたくさん飾られている。祭りの様子、商店街が賑やかだった頃の風景、学校行事の写真。どれも温かみのある色合いで、見ているだけで心が和んだ。

「昔の写真って、なんだか特別な感じがしますね」翔太はつぶやいた。

「そうだろう?」花岡さんは嬉しそうに答えた。「フィルムで撮った写真には、デジタルにはない味わいがある。一枚一枚を大切に撮って、現像するまで結果がわからない。そのドキドキ感も含めて、写真の楽しみだったんだよ」

花岡さんは奥から古いアルバムを持ってきた。「翔太くんの写真も、まだ残してあるよ」

アルバムを開くと、そこには幼い翔太の写真があった。七五三の着物姿、小学校の入学式でのランドセル姿、家族で撮った年賀状用の写真。どれも鮮明に覚えている場面だった。写真の中の翔太は無邪気に笑っており、両親も若々しく見えた。

「懐かしいですね」翔太は写真を見つめながら言った。「あの頃は、写真を撮るのが特別なことだったような気がします」

「そうそう。家族写真は年に数回、特別な日にしか撮らなかった。だからこそ、一枚一枚に思い出が詰まっている」花岡さんは写真を指差した。「この時のこと、覚えているかい?」

翔太が見つめる写真は、小学校の運動会での一枚だった。徒競走でゴールインした瞬間を捉えており、翔太の嬉しそうな表情が印象的だった。

「覚えています。一等賞を取って、すごく嬉しかった。父が『よく頑張った』って褒めてくれて」翔太の声が少し震えた。

花岡さんは優しく頷いた。「お父さんも、とても誇らしそうだったよ。撮影の時も、『息子の晴れ姿をしっかり残してください』って何度も言っていた」

翔太は写真をじっと見つめた。父の記憶が蘇ってくる。仕事で忙しい中でも、翔太の学校行事には必ず参加してくれた。写真を撮るときも、いつも真剣な表情で最高の一枚を残そうとしていた。

「実は、お店を閉めることにしたんだ」花岡さんが静かに言った。「もう年だし、お客さんも少なくなった。来月末で看板を下ろす予定なんだよ」

翔太は驚いた。「そうなんですか。寂しくなりますね」

「そうだね。でも、長い間やってこられて幸せだった。たくさんの家族の大切な瞬間を写真に残すことができた。これ以上の喜びはないよ」花岡さんは満足そうに微笑んだ。

翔太は考えた。この写真館がなくなると、この町からまた一つ、大切なものが失われてしまう。子供の頃の記憶と繋がる場所が、また一つ消えてしまう。

「もしよろしければ」翔太は言った。「最後に、一枚写真を撮っていただけませんか?」

花岡さんの目が輝いた。「もちろんだよ。どんな写真がいいかな?」

「特別なものでなくても構いません。ただ、この写真館での最後の記念に」

花岡さんは嬉しそうに準備を始めた。古いカメラを持ち出し、フィルムを装填する。その手つきは、長年の経験に裏打ちされた確かなものだった。

「それでは、こちらに立ってください」花岡さんは翔太を誘導した。「自然な笑顔でお願いします」

シャッターが切られる音が響いた。フィルムカメラ特有の、機械的で温かい音だった。翔太は、子供の頃に聞いたその音を思い出した。

「現像ができたら連絡するよ。住所を教えてくれるかい?」花岡さんは連絡先を聞いた。

翔太は東京の住所を書いた。「お忙しいでしょうに、すみません」

「いえいえ、最後のお客さんになってくれて嬉しいよ。きっと、いい写真になる」

翔太は店を出る前に、もう一度店内を見回した。この場所で過ごした時間、撮ってもらった写真、すべてが宝物のような記憶だった。

「花岡さん、長い間ありがとうございました」翔太は深く頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとう。翔太くんの成長を見守ることができて幸せでした」

一週間後、東京のマンションに一通の封筒が届いた。差出人は花岡写真館。中には、翔太の写真と手紙が入っていた。

写真を見ると、翔太は驚いた。自分でも知らなかった、穏やかで懐かしそうな表情をしていた。まるで故郷に帰ってきた安堵感が、そのまま写真に写っているようだった。

手紙には、花岡さんの丁寧な文字で短いメッセージが書かれていた。

「翔太くんへ。最後の一枚が、一番いい写真になりました。あなたの優しい心が写真に表れています。これからも、大切な瞬間を忘れずに生きてください。たまには故郷のことを思い出してくださいね。花岡」

翔太は写真を額に入れて、部屋に飾った。忙しい毎日の中で、その写真を見るたびに故郷のことを思い出す。花岡写真館の温かい雰囲気、花岡さんの優しい笑顔、そして自分のルーツ。

その後、翔太は年に数回は故郷に帰るようになった。商店街はさらに静かになったが、新しいカフェや若い人が始めた小さな店も現れていた。変わるものと変わらないもの、どちらも大切だと翔太は思うようになった。

ある日、翔太は古い写真を整理していて、一枚の家族写真を見つけた。花岡写真館で撮った、家族三人の年賀状用の写真だった。父も母も若く、翔太はまだ中学生だった。三人とも幸せそうな笑顔を浮かべている。

翔太はその写真を母に送った。電話がかかってきて、母は涙声で喜んでくれた。「お父さんも、きっと喜んでいるわ」母の言葉が、翔太の心を温めた。

写真には、時を越える力がある。過去と現在を繋ぎ、離れた場所にいる人の心を繋ぐ。花岡さんが長年大切にしてきたのは、そんな写真の持つ特別な力だったのかもしれない。

翔太は今でも、時々あの写真館の夢を見る。花岡さんが笑顔でカメラを構え、「はい、チーズ」と言う声が聞こえる。そして目が覚めると、故郷への思いが胸の奥で静かに揺れている。季節が巡り、年月が過ぎても、心の中の写真館は永遠に輝き続けている。

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