ちくわ君と学ぶ株⑩ 心の罠

秋も深まったある日の午後、森の研究所では、ちくわ君が赤い木の実をかじりながら、静かに本を読んでいた。

「ちくわさん!大変です!今すぐなんです!」転がるように扉を開けて、はんぺん君が息を切らして駆け込んできた。「いま森じゅうで、ある会社の株がぐんぐん上がってるんです!みんな買ってます!僕も今すぐ買わないと、乗り遅れちゃう!どうしましょう!」

ちくわ君は本を置いて、いつものように、ふっと優しく笑った。「はんぺん君、まあ、ひと息つこう。赤い木の実を一つ、どうだい。……そう、その『今すぐ買わないと』という気持ち。じつはそれこそが、今日の、そして最後のテーマなんだ」

「最後の……?」はんぺん君は、木の実を受け取りながら目をしばたたいた。

「これまで、たくさんの道具を学んできたね。会社の値打ちのはかり方、健康診断、分散、複利、市場まるごと買う方法。どれも立派な道具だ。でも、それを使いこなすうえで、いちばん手ごわい相手が、最後に残っている。それは――はんぺん君自身の心なんだよ」

「ぼくの、心……?」

「うん。人の心には、お金が関わると、つい引っかかってしまう『罠』があるんだ。まず一つ目。今のはんぺん君みたいに、『みんなが買っているから、自分も乗り遅れたくない』と、値上がりの天井近くで飛びついてしまうこと。これを『高値づかみ』という」

「うっ……まさに今の僕です」

「そして二つ目。逆に、株価が急に下がると、こわくなって、いちばん安い谷の底で慌てて売ってしまう。これを『狼狽売り』という。絵で見ると、人の心がどんなふうに動きやすいか、よく分かるよ」

買いたくなる (高値づかみ) 売りたくなる (狼狽売り) 心のままに動くと、高いところで買い、安いところで売ってしまう
図:感情のままに動くと、天井で買い、底で売る。本当にやりたいことの、ちょうど逆になってしまう

「あっ……これ、さかさまだ!高いところで買って、安いところで売ってる!本当は、安く買って高く売りたいのに……!」はんぺん君は声をあげた。

「そこに気づけたら、今日の話は半分わかったようなものだよ」ちくわ君は満足そうに頷いた。「人の心は、まわりが盛り上がっていると、つられて強気になる。まわりが青ざめていると、いっしょにこわくなる。その自然な気持ちに素直に従うと、ちょうど、もうけとは逆のことをしてしまうんだ」

「みんなと同じことをしているのに、どうして……」

「みんなと同じだから、なんだ。値段は、前に話したとおり、みんなの期待で動く。だから、みんなが熱くなって買いつくしたあとには、もう買う人が残っていなくて、下がりやすい。みんなが投げ売りしたあとには、もう売る人がいなくて、上がりやすい。群れと同じ方を向いていると、いちばんおいしくないところを引きやすいんだよ」

「こわいです……。じゃあ、どうすればこの罠にかからずにすむんですか?」

ちくわ君は赤い木の実を、手のひらでころりと転がした。「いい質問だ。とっておきの方法を三つ、渡しておこう。一つ目は、『あらかじめルールを決めておく』こと。心が熱くなったり凍えたりする前に、落ち着いているうちに、自分のやり方を決めておくんだ。たとえば、毎月おなじ額だけこつこつ買う、とね。そう決めておけば、その日の気分に振り回されずにすむ」

「気分じゃなくて、ルールで動くんですね」

「二つ目は、『何もしない、という勇気を持つ』こと。株価がぴくぴく動くたびに売り買いしたくなるけれど、たいていの場合、どっしり持ち続けて、何もしないほうがうまくいく。前に複利の話をしたね。あれが効くのは、慌てて動かず、長く持てた人だけだった」

「そわそわして売っちゃうと、複利の勢いが出ないんでした……」

「よく覚えていたね。そして三つ目。これがいちばん大事かもしれない。『うまい話には、必ず裏がある』と、いつも心のすみに置いておくこと。『誰でも、ぜったい、すぐ儲かる』――そんな話が本当なら、わざわざ他人に教えたりしないだろう?お金のまわりには、人の欲や不安につけこもうとするものが、たくさんいるんだ」

「いちばん最初の日に、ちくわさんが『大儲けできる、の裏には、損するかもしれない、が張りついてる』って言ってたのと、同じですね」

ちくわ君は、うれしそうに目を細めた。「よく覚えていたね、はんぺん君。そう、ぐるりと一周して、また同じところに戻ってきた。結局、株とかしこくつきあうコツは、すごく地味なんだ。仕組みをちゃんと知って、分けて、長く、こつこつ、そして心を落ち着けて続ける。派手な必勝法なんて、どこにもない」

はんぺん君は、手のなかの赤い木の実を見つめて、しばらく考えこんだ。それから、ゆっくり顔を上げた。

「ちくわさん。僕、さっきの『今すぐ買わなきゃ』っていうの、やめます。よく分からないまま、みんなにつられて飛びつくところでした。まずは落ち着いて、自分のルールを考えてみます」

「……はんぺん君」ちくわ君は、しみじみと言った。「それが言えたなら、もう、この森のどんな道具よりも強いものを、君は手に入れたよ。知識は道具にすぎない。それを使う心が落ち着いていてこそ、はじめて道具は生きるんだ」

「ぜんぶ、ちくわさんが教えてくれたおかげです」

「いや、ちゃんと自分の頭で考えて、自分でブレーキを踏んだのは、はんぺん君だよ。今日で、お金とつきあう道具は、ひととおり渡したね。あとは、あわてず、あせらず、自分のペースで歩いていける。もう、いつでも研究所に駆け込んでこなくても、大丈夫だ」

「……はい!でも、ときどきは、赤い木の実を食べに来てもいいですか?」

ちくわ君は声をあげて笑った。「はは、もちろんだ。いつでもおいで。お茶うけの木の実は、たっぷり用意しておくよ」

はんぺん君は、ぺこりと深くおじぎをして、それから、いつものように元気よく手を振って、秋の森へ駆けていった。その足どりは、最初の日より、少しだけしっかりして見えた。

一人になったちくわ君は、窓の外を眺めた。木々は色づき、実を落とし、また来年へと静かに備えている。あせらず、自分のときを生きる森。よい教え子を見送れたなと思うと、いつもより少し大きく心が弾んで、ちくわ君は新しい赤い木の実へ、ゆっくりと手を伸ばした。

森の研究所には、今日も――そしてこれからも、学びの気配が満ちていた。

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